最後のひとりは君じゃない




 思えば、独りで庵に住んだことはなかった。
夫婦で住み始める前に訪ねたことはあったが、その頃は先の住人が既にいた。
流行りの店も華やかな服も同年代の娘もいない、ないないづくしの隆中にあったのは無限の長閑さだけで、その中で唯一存在していたのが夫の前にここに住んでいた娘だった。
年の近い娘同士きゃっきゃと遊び、そこに越してきたのが後の夫となる諸葛亮だった。
本当に自分の血縁かと疑ってしまうほどに美しかった娘に、夫は恋をしていた。
恋をして、おそらくは想いを伝え、伝えただけで時が経ち、現れたのがだ。
我が子のように可愛がっている。
は大切な娘だ。
おらずして、何を拠り所に生きればいいのかわからない。
月英は、独りで住むには広くて寂しすぎる庵を見回した。
と捏ねた饂飩がまだ少し残っている。
がいつ帰ってくるかわからないが、できれば2人で食べたい。
早く帰ってきてほしい、だけは戻ってきてほしい。
彼女の母親は行ったきり、最期はどうなったのかすらわからないまま逝ってしまったから。



「おっさんとおじさんって違うの?」
「江南の方言ではないのか?」
「なるほど~。あ、ここだよ姜維殿。じゃーん、隆中でーす!」



 ただいまーと晴れやかな声が聞こえ、月英は顔を上げた。
ここが丞相のと、姜維の声も同時に聞こえる。
なぜ姜維も隆中にいるのだろう。
今回の旅には姜維はもちろん同道させていないし、出かけるとも伝えていない。
ついに姜維は、こちらが何も言わずとも勝手にについてくるようになってしまったのか。
どれだけを好いているのだ、彼は。
月英は庵の入口で旅装を解いているを出迎えると、同じく軽装の姜維を見下ろした。




「早かったですね、。陸遜殿とは仲良くなれましたか?」
「仲良くはなれてないですし、お互いだいぶ気まずかったです」
「まあ、陸遜殿にご迷惑を?」
「かけてないです! 相性が合わなかったんだと思います。石兵八陣はすごかったです! ね、姜維殿」
「ああ、丞相の神算に触れることができる貴重な経験だった。月英殿、丞相から早く戻ってほしいとのご伝言を預かっています」
「姜維殿は私たちを連れ戻しに遠路いらしたのですか」
「はい」
「伝言する前に我慢できなくて石兵八陣に来ちゃったんだよね」



 咳払いした姜維がそっぽを向く。
どうやら間違いではないらしい。
陸遜との交流は上手くいかなかった分、姜維が来てくれても安心したはずだ。
もにこにこと笑いながら姜維を揶揄し、そっぽを向いていたはずの姜維もいつの間にか笑っている。
ああ、いつかもこんな光景を見守っていた。
まさかこの地で再び、温かな光に包まれる日が来るなんて。
月英様、お腹が減りましたとが笑顔で振り仰ぐ。
この子は、この子だけは何があっても私の子どもで、何をしてでも守らなければ。
無言でしゃがみ込み、を抱きしめる。
ぎゅうと抱きしめ返すの優しさが愛おしかった。





























 想像以上に月英様を心配させてしまっていた。
心配しすぎてお疲れになってしまったのか、早々に眠ってしまった月英様を残し寝所を出る。
月英殿はと、腰を浮かせて訊いてくるのは姜維殿だ。
どうしてここにいるのが諸葛亮様じゃなくて姜維殿なのかなあ。
私は姜維殿の向かいに座ると、膝を抱え白湯を口に含んだ。
月英様が山麓から運ばせてきたという湧き水は美味しい。
木牛が隆中にもいるとは思わなかった。
月英様はずっと昔から諸葛亮様の大計を支え続けていたんだろう。
劉備殿に請われて隆中を出ていく前も、出てからも、諸葛亮様は集中すると食事も摂らなくなってしまうような方だから常に隣にいたんだと思う。
こうして離れ離れになっているのは初めてのことかもしれない。



「お疲れだったみたい。今はぐっすり」
「かつて住んでいたとはいえ、ここまでの行程も長い。気を張っていらしたんだろう」
「私も陸遜殿に連れてかれちゃったしね」
「それは大いにあると思う」
「姜維殿が場と分を弁えない行動してくれて本当に良かった」
「褒めているのか?」
「うんうん、姜維殿すごーい」



 大きくため息を吐いた姜維殿が私の隣に場所を移す。
先程の話と問われ、首を傾げる。
先程とはいつ程だろう。
おじさんの話か、饂飩の話か、隆中時代の諸葛亮様の話か。
手当たり次第に挙げてみるけど、姜維殿はすべてに首を横に振る。
成都に帰る話と告げられ、私はあぁとだけ答えた。



「月英様が戻るって言うまでここにいる」
「丞相は一刻も早い帰還を願っている」
「すぐに戻っても月英様のお気持ちがついてかないでしょ。今すぐ北伐するわけでもないんだし、しばらくゆっくりさせてあげたい」
「丞相はお寂しがっている」
「月英様もお寂しい思いをしてるよ、成都で」
「それは」
「ご夫婦の気持ちの問題でしょ。私も姜維殿もそのへんはわかんないよ、所帯も持ってないんだから」



 寂しいなら迎えに来ればいいなんて、そんなこと私は言えない。
嫡子と正妻を比べるなんて下衆なことを諸葛亮様にはさせられない。
どちらも諸葛亮様にとってはかけがえのない大切な存在で、片方を疎かにしていいものではない。
きっとどこかでお互いに気持ちを整理して歩み寄るんだと思う。
どこかがいつなのか、私と姜維殿にはわからないだけだ。
私は、随分と近くなってしまった姜維殿の横顔を見つめた。
姜維殿の「寂しい」がどんな意味なのか、ほんの少しだけ興味が湧いた。



「姜維殿は私がいなくて寂しいの?」
「そうだ」
「じゃあ姜維殿はずっとここにいれば?」
「それはできない。私は丞相の命を受けてここにいる」
「諸葛亮様のご命令なら、私を無理やり連れ帰ることもする?」
「丞相はそこまでは望んでおられないし、私も無理強いして殿に嫌われたくはない」
「じゃあやっぱり私の気が済むまでここにいる?」
殿と隠遁生活を送るほど私はまだおじさんではないかな」



 それって、歳を取っても私と一緒にいたいってことだろうか。
諸葛亮様という私と姜維殿を繋ぐ人がいなくなっても、姜維殿自身の意思で私といたいってことなのかな。
私がどんな人が知っても、姜維殿は同じように思ってくれるのかな。
いいや駄目だ、期待してはいけない。
この人は私の父親をめちゃくちゃに貶すほど嫌っている。
姜維殿の寂しいに応えたら最後、姜維殿は寂しいと思ったことを後悔してしまう。



「一旦成都に戻って無理でした〜って報告したら?」
「悔しいが、そうせざるをえない展開だ」
「名将は引き際とか撤退戦が肝だって言うよ」
「詳しいんだな」



 いっそ丞相にご出陣願うのは、いやだがしかし。
ぶつぶつと次善の策を考え始めた姜維殿だけど、その提案はまず通らないと思う。
政務においてもお忙しい諸葛亮様がこんなとこまで来るはずがない。
私は空になった姜維殿の杯に白湯を継ぎ足すと、ふわぁと欠伸した。




「無理やりが好きならできなくもないが・・・」「好きじゃないよ?」



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