三顧の礼をもう一度




 隆中は平和で長閑だ。
今が戦乱の世とは思えないほどゆっくりと時間が流れていて、ここにいると外がどうなっているかわからなくなりそうだ。
月英様と私を連れ帰ることに失敗した姜維殿が成都に戻ってから、どのくらいの日が経ったんだろう。
庵には諸葛亮様が書生時代に読んでいた書物がたくさんあって、飽きることはないと月英様は言っていた。
申し訳ないけど、書を紐解くのは2日目で飽きた。
元々書を楽しんで読める頭はなくて、兵法も戦術もピンとこない。
文字で追うより言葉で伝えてもらう方が覚えやすかったみたいで、政庁に遊びに行った時はよく読み聞かせしてもらっていた。
今はもう教えてくれる人がいないから、私に備わっている知識がこれから増えることはないんだけど。
心を攻めるのが上策というのは、私に備わっている唯一の戦術だ。



「このまま時代に置いていかれて、出廬したら天下統一されてたりしないかな〜」



 あとどのくらい経てば、天下はひとつになるんだろう。
あとどれだけの見知った人々が死ねば、戦いの日々は終わるんだろう。
北伐に行って、帰ってくるたびに大切な人がいなくなる。
張苞殿はもういない。
趙雲様も先頃亡くなり、蜀の天下はますます遠のいている気がする。
諸葛亮様の跡を継ぐんだろう姜維殿は、麒麟児だけあって優秀だけど一途な性格がちょっぴり不安だ。
諸葛亮様にとっての劉備殿のように、姜維殿にも水魚の関係を築ける存在がいればいいのに。
諸葛亮様のお子の諸葛瞻殿が一軍を率いる将になった頃、蜀にはどれだけの将兵が残っているんだろう。
何のお役にも立てない我が身が歯痒いけど、それでいいと諦めてしまう私もいる。



「・・・?」
「ん~」
「お昼寝ですか? 気持ちが良さそうですね」
「晴耕雨読でーす」
「今日はよく晴れていますが」
「・・・えっ」
「息災でいましたか、
「しょ、諸葛亮様、なんでここに」
「そろそろ隆中に飽いた頃かなと推察しまして」
「諸葛亮様すごーい!」




 床に寝そべっている私を諸葛亮様が穏やかな顔で覗き込んでいる。
起き上がろうとすると、絶妙な間合いで手を差し伸べてくれる。
どうしてここにとか、成都は良いのかなとか、ご子息との時間はとか、訊きたいことは山ほどあるけど言葉にはしない。
何を訊いてもきっと諸葛亮様はちょっぴり困った顔をしてしまうし、私は穏やかな諸葛亮様のお顔をずっと見ていたい。
蔵で工作物の手入れをしている月英様を迎えに行くべく、諸葛亮様を案内する。
諸葛亮様と並んで歩くのが随分と懐かしく感じる。
一緒に歩いているだけなのに楽しくて、ふふっと笑みが零れる。
楽しかったですかと尋ねられ、私は大きく頷いた。



「石兵八陣にも案内してもらったんです。岩が高く連なっていて、地形を策に活かす諸葛亮様はすごいなって思いました!」
に戦術を褒められる日が来るとは、勉強しましたね。庵には様々な書もあったでしょう」
「ありました!」
「好きなものはありましたか? 気に入ったものがあれば持ち帰って構いませんよ」
「えーーーっと」
「今回はやめておきましょうか」



 諸葛亮様が朗らかに笑い、私もえへへと笑い返す。
諸葛亮様は普段から私のことをよく見ているから、私が書物に何の興味も持たなかったこともお見通しだった。
なんてことない会話すら懐かしくて、成都が恋しくなる。
誰かに会うまでは寂しくもなんともなかったのに、諸葛亮様が迎えに来た途端に寂寥感が押し寄せる。
成都は私の居場所なんだ。
私には成都の邸しかないんだと改めて思い知る。
今更どこかに行けやしない。
どんなに取り繕っても偽っても、私は蜀でしか生きていけない。



「成都に帰ったら、瞻に会ってみませんか?」
「いいんですか?」
には瞻を支えてほしいと考えています。あの子には、のように人に愛される子になってほしい」
「諸葛亮様のご子息ですから、皆さん絶対に大切にしてくれますよ」
「私の子という肩書きがなくとも、彼そのものが慕われるような人になってほしいという意味です」
「責任重大ですね・・・。私に務まるでしょうか」
「そう深く考えずとも、見守ってくれるだけで構いません。・・・成都では辛い思いをさせました。気付けず申し訳ありません」



 姜維殿が話したのかもしれない。
言われるまで私自身も忘れかけていたその日の出来事は、姜維殿と私だけの秘密だ。
内緒にしてねと言ったのに、姜維殿が約束を忘れてしまうくらいの日にちが実は経っていたのかもしれない。
私は、ひとりで蔵へ入っていく諸葛亮様の背中を見つめた。
諸葛亮様に声をかけられた月英様が、目元を覆いながら何度も頷いている。
隆中での生活がやっと終わる。




饂飩を捏ねる道具持って帰ってきちゃった!



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