いつか誰かの水となれ
息子ですと短く説明を受け、おずおずと目の前へ現れた子どもを見下ろす。
諸葛亮様によく似た賢そうな目をした子どもと視線が交わり、腰を屈める。
はじめまして、です。
挨拶にしてはあまりにも素っ気ない言葉しか出てこなくて、失態を取り返そうととびきりにっこり笑ってみる。
年長者にはすこぶる好評の自信の笑顔だけど、果たしてお子様に私の愛想が通じるかどうか。
ほんの少し緩んだ子どもの表情を確認し、思わず諸葛亮様を仰ぎ見る。
良かったですねと微笑んで見つめてくれる諸葛亮様も私が勝手に夢想する父親の自愛に満ちた笑みそのもので、龍の次代への挨拶という大役を無事に果たせたんだととほっとする。
成都に戻った私たちは、諸葛亮様と一緒に今までどおり暮らしている。
諸葛亮様がご子息に会いに行ったのは、私を挨拶に連れて行った一度きりだと思う。
成都を離れていたせいで政務が溜まっていたのか諸葛亮様はとてもお忙しくしていて、政庁と邸の往復で一日が終わっているから間違いはない。
それでいいのかなと疑問が浮かんだこともあったけど、訊いてはいない私は随分とずる賢くなった。
知らない間に隆中で頭が良くなる書でも斜め読みしていたのかもしれない。
「せっかくの申し出だったのに、一冊も持ち帰らないとは!」
「でも興味あるのなかったし」
「私は、たとえそれがどんな眉唾物の俗本でも手に入れたかった!」
「そんなこと言われても、姜維殿が何が好きかとかわかんないもん」
「丞相にまつわるものなら何であっても、だ!」
「そういうの一番困る」
向かいではなく、隣に並んで座っている姜維殿の横顔を呆れて眺める。
諸葛亮様のことが大好きな姜維殿らしい答えだけど、私には何も伝わらない。
もっと具体的に何が好きか言ってもらわなければ、私は姜維殿に応えてあげられない。
諸葛家と私がいない間の姜維殿は、それはもう忙しかったらしい。
寝食を忘れたと話していた姜維殿の目には確かに隈が刻まれていて、身辺の整理まで手が回らなかったのか部屋は散らかっていた。
仮に私が隆中からお土産を持参していても、荒れた部屋に置けばあっという間に紛れ込んでしまいそうな有様だった。
再会した時は雨に濡れた犬みたいだった姜維殿は、充分な休息を得た今は生き生きと働いている。
私が悪いわけじゃないんだけどなんとなく放っておけなくて、政庁の部屋の片付けも手伝ってあげた。
どうにかこうにか物を片付け、詰めれば2人並んで座れる空間を創出したのが現状だ。
もしかして姜維殿の邸はもっと散らかっているのではと、不穏な予感がしたりしなかったり。
「こないだのお休みは諸葛亮様と釣りに行ったんだよ。楽しかった~!」
「2人で?」
「月英様と3人で。川辺でお昼も食べたりして、のんびりできたよ」
「良かったな」
「うん! 上手にできてるって褒めてもらったから、今度姜維殿にも教えてあげる」
「丞相が手ずから教えてくださるわけではないのか」
「諸葛亮様は成都に戻ってからずっとお忙しいって、姜維殿が一番よく知ってるでしょ」
「それはそうだが・・・」
丞相が楽しそうで良かったと、姜維殿がしみじみと話す。
他にも何か言いたそうに口をもごもごさせてるけど、言ってもらわないと私には何も届かない。
姜維殿は私たちがいない間の諸葛亮様もずっと見てきたから、誰よりも変化に気付けているのかもしれない。
私といても楽しい思いをして下さっているのなら、私も戻ってきて良かった。
そうだ、諸葛瞻殿ももう少し大きくなったら釣りに誘ってみようかな。
その頃までに釣りの腕も上げておかなくちゃ。
私なんかでも、大計を描いたらわくわくできちゃうんだ。
なんだか私も軍師になったみたいで嬉しくなった。
丞相はご子息との時間はどうされたのだろうか