隣の芝生は氷河期
非礼と謗られない程度に落ち着いた色合いの服を身に纏い、宮殿の柱からそっと中を窺い見る。
よし、いない。
面倒事に巻き込まれないように宮殿の裏道と細道を駆使し、遠回りをした甲斐があった。
子どもの頃から成都じゅうを駆け回り遊んでいた経験が、大人になった私を助けている。
どんなことでも経験ですよと、諸葛亮様はよく言っていた。
諸葛亮様はどこまで見ていたんだろう。
蜀が内部から空っぽになっているとは、さすがに思っていなかったはずだけど。
「うわ、やっぱりいる・・・」
宴だからと気合を入れたのか、遠目で見てもすぐにわかる上等な身なりの男がいる。
薄っぺらな笑顔を女官に振りまいて、彼の目を見るだけでぞわぞわする。
どんなに甘い言葉を囁いても、妖しい指遣いで魅了しても、あの男の瞳には何も映っていない。
目標しか見ていない。
彼の標的を探りたくて話を聞いてみたけど、何もわからなかった。
私もよっぽど人を見る目がないらしい。
「おや、殿?」
「ひぃっ・・・」
「このような場に隠れて、密偵の真似事か?」
「ああ、費禕殿かあ、良かった」
「ふぅむ、訳ありか。殿も今日は呼ばれているのであろう? 私と同道せぬか?」
「いいんですか?」
「政庁の一輪の花に添えられるとあれば、私の方こそ光栄だがな」
「やだあ、それ蒋琬殿の口癖じゃないですか」
費禕殿との付き合いも随分と長くなった。
諸葛亮様が亡くなって蒋琬殿が後任に就いて、最後にその重すぎる任を背負ったのが費禕殿だ。
費禕殿は北伐には消極的というか、内政を立て直すことを重視していた。
だから姜維殿とは少し反りが合わなくて、何度目かの意見の衝突をした後、姜維殿の足が政庁から遠のいてしまった。
歩み寄りも話し合いも控えてしまったから、たぶん今はほとんど交渉できていない思う。
私だって、殿はどちらの味方なのだと当時の姜維殿から迫られて、私は国のことしか考えてないと返してしまったのだ。
あの時の姜維殿のがっくりした顔は今でも覚えている。
費禕殿は、姜維殿に纏わりついている降将の存在に気付いているのだろうか。
知っていても何も言わなさそう。
だって費禕殿も姜維殿も責任ある立場にいる立派な将だもん。
いつまで経ってもお小言を言われるのは私くらいだ。
私は費禕殿に連れられ宮中に入ると、そのまま末席へ視線を向けた。
さすがに費禕殿の隣には行きたくない。
「殿!」
「げ・・・」
「殿、ずっとお探ししていたのですが費禕殿といらっしゃるとは。何かの縁ですし、良ければご紹介いただいても?」
「いや・・・・・・」
私を目ざとく見つけた男が、顔に笑みを張り付けて歩み寄る。
嫌だという拒絶の気持ちが私も思いきり顔に出たのか、隣の費禕殿がひたと男を見据える。
私に面倒をかけるだけならまだ許せるけど、多忙を極める費禕殿にまで害が及ぶの絶対に避けたい。
それに今日は陛下主催の大規模な宴だ。
私が我慢すればいい程度の狼藉で宴に水は差したくない。
すうと大きく息を吐き、費禕殿と男の間に割って入る。
男の、何の感情も窺えない瞳に私の強張った顔が映っている。
これじゃ駄目だ、もっと上手くやらないと。
私は目元を緩めると口を開いた。
「費禕殿とは先ほどお会いしただけなので、私の方から言えることは何も・・・」
「ですが遠目でも随分と親しげに見えました。羨ましいことです」
「費禕殿が? 私が?」
「無論、私がに決まっておろう。殿の横に並ぶことを許されるのは男の誉れよ」
「・・・は?」
「ははは」
鷹揚に笑った費禕殿が、私の腕を引き席へ向かう。
立ち竦んだ男を取り残しずんずんと上座へ向かう費禕殿に、慌てて声をかける。
助けてくれたのはとても嬉しいけど、それは費禕殿のためには決してならない。
ていうか冗談が言える人だったんだ、この人。
「費禕殿!」
「柄にもない謀略に手を出すものではないぞ、殿」
「あー、その、ええと」
「そういうのは姜維殿に任せておけばよいのだ。殿が心安く在らねば、我々は顔向けができぬのだ」
「誰に? 諸葛亮様に?」
「諸葛亮殿にもだ」
費禕殿が誰に向けて言っているのかわからない。
私はちらりと背後を顧みた。
取り残された男の目が、今まで見た中で一番冷たかった。
花はずっと花らしく在らねば