麒麟児は待てができない
楽しい一人旅のはずが、お小言でうるさい2人旅になっている。
しかも勝手に旅程まで組まれてて、実は私よりも海を楽しみにしてたのでは疑惑もある。
仕方ないか、天水にも海はないし、姜維殿だって温暖な気候で生まれ育った美女に鼻の下を伸ばしたくなる年頃だ。
あーあ、姜維殿いたら孫呉の美丈夫見に行けないじゃーん。
悪態が独り言として口に出ていたらしく、馬車の真隣でごほんごほんと大きな咳払いが聞こえる。
姜維殿も自分のことを美丈夫と自負している節があるから、きっと危機感を抱いたんだろう。
「殿、今回はあくまでも呉との親睦を深めるための視察という体です。くれぐれも蜀の品位を貶めるようなことはしないように」
「ねぇねぇ姜維殿、どうして私のお忍び旅行が蜀の公式行事になってるわけ? ていうか一番気を付けないといけないの姜維殿でしょ」
「何を戯けたことを」
「だって姜維殿、呉に着くまでも着いてからも蜀に戻るまでも、ずーっと私とふたりっきりなんだよ。我慢できる?」
「・・・・・・たぶん」
姜維殿は諸葛亮様に試されている。
可愛い可愛い娘(娘ではない)を任せるに足る男かどうか、よりにもよって大切なはずの娘を使って見極めている。
諸葛亮様、実はやっぱり私のこと嫌っているのではないだろうか。
何かあったらどうするんだろう。
何かあっても諸葛亮様は痛くも痒くも何の影響もないあたり、私の立場の苦しさがある。
ひょっとしたら、姜維殿にこのまま言うこと聞かない我儘娘を海に沈めてこいなんて密命を与えているかもしれない。
ないと言い切れないのが悲しい。
諸葛亮様に甘えてばっかりだった代償がこんなところで出てくるなんて、もう少しいい子にしていれば良かった。
沈められる前に一言謝れば良かった。
「丞相は殿が心配なのです。女人が単身で他国へ行くなど、道中何かあってはどうするのです」
「でも蜀と呉は同盟国じゃん」
「これは私が魏にいた頃に聞いた話だが、かつて赤壁の戦いの際、どさくさに紛れて孫呉の将が曹操殿の娘を浚ったらしい。女とみれば見境がないような野蛮な輩も住んでいると考えてもおかしくはない」
「え~すごーい! 熱い展開じゃん、そういうの幸せになってほしい」
「そうではなくて! ・・・国に住む者すべてが聞き分けが良い人々ではない。長く戦乱で荒れた地には、人を売り買いすることによって生計を立てている集団もいます。殿のように成都の中だけで育ったような世間知らずは、彼らにとっては格好の獲物です」
「姜維殿詳しい、あと馬鹿にしてるでしょ」
「丞相や月英殿はあえて話さなかったのでしょうが、殿も知っておくべき知識です。もっとも今回はそのような事態にならないために私が同道しているので、殿も羽目を外したり私から離れたりしないように」
ここぞとばかりにお説教を混ぜてくる。
為になる知識を仕入れていた姜維殿をほんの少し見直そうとした直後、間髪入れずにお小言を挟んでくる。
一言余計だ。
そこまで念押しされなくても、私も凡愚ではないので無鉄砲なことはしない。
趙雲様にも認められた槍術を会得している姜維殿の目を盗んで単独行動できるとは思えない。
ただ純粋に海が見たかっただけなのに、どうしてこんなに周りが騒ぐんだろう。
政治は難しすぎる。政略結婚とか組まれる家に育たなくて良かった。
「孫呉ってどんな人がいるんだろうね、劉備殿の奥方殿しか知らないや。見たことないけど」
「呉に縁があって出奔を企てたわけでないと?」
「呉軍に知り合いはいないですね・・・」
「なぜそのような無謀な真似を」
「だってだって暑いんだから噂に聞く海で貝殻拾ったり貝殻耳に当てたり貝殻をえっと」
「つまり無策ですか」
「そう」
姜維殿が長めに息を吐いていたかと思えば、分厚い旅程表になにやら書き込んでいる。
ちらりと横から覗き込んでみると、余白にびっしりと几帳面な文字で書き足された単語がある。
美味しい甘味処、風光明媚な池、趣がある宿、孫権殿がお好きらしい酒と話題。
ううわ、公私のうち公がひとつしか書かれてない。
さすがはむっつり姜維殿だ。
真面目すぎる性格は大変だなあ。
見られていることにようやく気付いた姜維殿が、みるみるうちに顔を赤くして慌てて書簡を巻く。
張苞殿たち直伝のにやにや笑いを抑えることができない。
「・・・何か」
「いや、姜維殿ってほんと真面目だなって」
「見ました?」
「う「焚きつけるようなこと言うと我慢しませんよ」
怒っているのか照れているのか我慢しているのか、感情を統一してから喋ってほしい。
私は姜維殿から離れた位置に座り直すと、成都周辺とはがらりと景色が変わった車窓へと視線を移した。
「姜維殿って結構むっつりさんだよね。鮑三娘殿が気を付けようねって言ってた」「ええ、気を付けて下さいね」