寄せては返す我慢の波




 姜維殿は外面がいい。
私にはあんなにずけずけと物を言うのに、孫権殿や孫呉の重臣らしき人たちと話す時はとっても真面目で、時折にこやかに微笑んだりもしたりしてお勤めを全うしている。
その姿はどこからどう見てもただの爽やかな文武両道の好青年で、私が理想とした後輩そのものだ。
私もあんな姜維殿となら仲良くなれたかもしれないのになー。
難しい話はするつもりも聞くつもりもない私は、案内された四阿でもらったお菓子をつまみながら呟いた。
全然楽しくない、早く海に行きたい。


殿が知る姜維殿は、あのような方ではないのですか?」
「ぜんっぜん違います」
「あらまあ・・・。でも孫権様も普段はあんなに固いお顔はされてないのよ。あれは王としての姿、姜維殿もきっとそう。殿には心を許しているからだと思うわ」
「う~ん・・・?」



 練師殿という美女は、何か思い違いをしている気がする。
女の子はみんな恋する話が大好きだ。
それはいくつになっても変わらないようで、練師殿のような大人の女性からも話題を振られるとは思わなかった。
そういうのはわからないですと素直に答えると、練師殿がふふふと笑う。
なんだか子ども扱いされた気分だ。
私はお菓子を全部平らげると席を立った。
ここで油を売っていても私の夢は何も叶わない。
何かを探られても私に話せることは何もない。
何も話してはいけない。
たとえ相手が諸葛亮様のお兄さんだろうと、私は私であることを内緒にしなければならない。



「この辺で綺麗な貝殻落ちてる綺麗な海と、練師殿が作ってくれたおやつの次に美味しいお菓子食べられるお店教えて下さい」
「ひとりで行くの?大丈夫かしら」
「蜀の使者に失礼を働くような国じゃないと思ってるんで」
「そう・・・ね。でも気を付けて、あまり波に近付かないように」



 書いてもらった地図を片手に城下に出向く。
見たことがない魚や貝殻が店頭に並んでいる。
街行く人々の肌はこんがりと日焼けしていて、入れ墨を入れている人も多い。
これが港湾都市、本で読んで想像していた景色が目の前に広がっている。
宮殿に置いてきた姜維殿のことも忘れてしまいそうだ。
いや、そもそも初めからひとりで来る予定だったから頭の片隅からも追い出して良いのでは?
そうしよう、私には小煩い従者なんていなかった!
身も心も軽くなった私は、潮風に誘われるまま海へと駆け出した。
















 少し待たせすぎたかもしれない。
ついつい話が弾んでしまい、孫権肝いりのとっておきの名所案内などを頭に叩き込んでいるうちに案内される側が逃げてしまった。
は自由奔放な娘だ。
2人旅だと言って聞かせても、はあまり理解していない。
辛うじて蜀軍の使者としての任は彼女なりに果たしてくれたが、それきりだった。
砂糖菓子を頭から浴びせたかのような甘やかされた教育を施されたも、さすがに他者を前にした礼儀はきちんと備えていた。
いつもあれならこちらも敬愛する師の娘に対して相応の礼を尽くせるのにと、淡々と口上を述べるの隣でずっと考えていた。
だからが何を言っていたのか正直ひとつも思い出せない。
どうせ時候の挨拶を丸暗記したものだろう。
心を攻めるのが上策がやや口癖のなので、その手の文句をひとつや2つ知っていてもおかしくなはい。
姜維は待たせていたはずの四阿が空っぽになっていたことを確認すると、そのまま城外へ馬を飛ばした。
世間知らずのだ、何も考えずに丸腰で海に繰り出したに違いない。
に何かあれば間違いなく海に沈められる。
姜維は建業から最も近い海岸へ飛び出した。
白い砂浜に女の子がひとりしゃがみ込んでいる。
ひとりで寂しくないのだろうか。
波の音しか聞こえない広い海と砂浜にぽつんとひとりきりで、彼女はそれでも楽しいと思えるのだろうか。
毎日誰かが放っておかない賑やかな蜀とはまるで違う環境すら、にとっては好奇心を満たす玩具でしかないのだろうか。



「あ、これ綺麗! これも綺麗、波の音はわかんないや」
殿」
「波の音じゃないのが聞こえたらいいのにね、人の声とか」
「まあもう思い出せないんだけど」



 波の音で足音が掻き消されているのか、すぐ背後まで迫ってもが振り返る気配はない。
一心に貝殻を集めていて、その中でもいくつかは袋に詰めている。
姜維はもう一度の名を呼んだ。返事はない。
存在そのものを無視されているようで気分が悪い。
を探すためにいくつかの予定を変えて海まで急いだのに、当の本人はのんびりと海とだけ戯れている。
我慢を強いているのはの方だ。
彼女の傍若無人さに今日くらいは反抗してもいいはずだ。
が泣きつく先はここしかないのだから。
姜維はの隣に腰を下ろすと、手元の貝殻を拾い上げの前に突き出した。



「これもお土産にどうですか」
「うーん、欠けてるからだめ」
「手厳しいですね」
「・・・・・・」
殿?」
「・・・えっ、いつから?」
「人の声が聞きたい、あたりから」
「ふーん」



 袋に詰めた貝殻のひとつをが取り出す。
確かにどこも欠けていない、しっかりとした形を留めた良質の貝殻だ。
ねぇ姜維殿、聞こえる?
体を横にずらし距離を縮めたが、姜維の耳に貝殻を当てる。
のほんの少しだけ汗を含んだ香りが、潮風に乗って鼻をくすぐる。
一緒に馬車に乗っていた時よりも近くに、鮮明にを感じる。



「ねぇ姜維殿、聞こえる?」
「・・・いい匂いだと思う」
「は? ま、匂いも含めて海だよね」



 波の音よりも、耳元近くで話すの吐息と声に意識が向く。
早鐘のように鳴り続ける胸の鼓動が聞こえていないか、そればかり気にしてしまう。
心よりも体を攻めた方が効率的なのでは?
同行者の乱れ始めた心を攻め続けるを前に、姜維は我慢我慢と繰り返し呟き続けた。




止んだ風を懐かしんだっていいんだ



Back  Next

分岐に戻る