麒麟児は喰らいたい
また間に合わなかった。
間に合わずとも少しくらいは融通が利くだろうと甘えてしまっているから、いつも同じ目に遭う。
姜維は食堂の空になった棚を見つめ、細く息を吐いた。
溜息をつくだけの体力すらもったいないと思ってしまうほど、腹が減っている。
腹が減ってから飯を食えばいい。
そう思った頃にはもう、兵たちが集う食堂は閉鎖されている。
食堂に勤める人々の就業時間は決まっている。
それでも、国のために命を懸けて戦う者のためならば多少の長時間労働には目を瞑るべきだ。
・・・と思っているのは自分だけだったらしい。
同じように昼飯を食いっぱぐれているであろう丞相府の同僚たちに愚痴ると、それは違うと猛反論された。
「ですがあなたもずっと詰めているではありませんか。飯も食わず」
「いや、食べているが?」
「は?」
「持参しているが? 私の一輪の花が作ったものなので分けてはやらんが」
「・・・」
この人は妻を妻と呼べないのだろうか。
にこにこと笑いながら話す同僚の声を聞いたのか、役人たちがそれぞれの卓の上に箱を置く。
妻帯者もそうでない男も、皆弁当を持参していた。
丞相府の不文律に初めて触れた。
なぜ誰も教えてくれなかった、というかここの主もまさか手弁当?
そこまで考え、姜維はああと悲鳴を上げた。
諸葛亮様お昼食べようと暢気に呼ばわっていたあの娘は、追い払ったあの日から一度もここを訪れていない。
「・・・まさか丞相は、私が殿を放逐した日からずっと昼抜きでいらっしゃるのか?」
「さあ、そこまでは・・・」
「私はなんという過ちを! 今すぐ丞相にお詫びせねば」
「姜維殿、詫びる相手が違うのだが」
姜維が真に謝るべき相手は何の落ち度もないのに叱責され追い出されたであって、彼女の好意を様々なかたちで受け取っていた諸葛亮ではないはずだ。
以前姜維はを茶に誘ったと聞いたが、あれから2人には何の進展もないらしい。
そうだろうなと思う。
は姜維のことをなんとも思っていない。
彼女の周りには様々な意味で強すぎる人物が揃いすぎている。
悲しいかな、はそのへんの並みの男では満足しない贅沢な娘になってしまったのだ。
「せめて丞相の分だけは作るように殿に伝えなければ!」
姜維はのことをどう思っているのだろう。
稀有な人物とはもちろん、役に立つ逸材とも露とも思っていないはずだ。
彼女は姜維が考えているよりもずっと国のためになる行動をしているのだが、まだ気付いていないのだろうか。
昼抜きの体力とは思えない武人の底力を発揮し丞相府を飛び出した姜維の背中を見送った役人たちは、再び大量の書簡へ視線を落とした。
姜維殿によくわからない理由で頭を下げられた。
出会った時から頭が高い生意気な後輩だと思ってたけど、急にしおらしくなられても居心地が悪い。
丞相のためにお願いするって、いったい何を?
私が今まで諸葛亮様のためにならないことをしてきたとでも?
・・・まあ確かに、ちょっとわがまま言って困らせたことはあったかもしれないけど。
私は往来から少し離れた広場で姜維殿のつむじを見つめながら、うーんと呻いていた。
気味が悪いとは言えないから言わないけど、正直かなり怖い。
ひとりでいるところを狙われた気がする。
そういうところがいかにも頭がいい姜維殿って感じだ。
「つまり姜維殿は諸葛亮様がご飯食べてるか心配ってこと?」
「殿も知っているかもしれないが、丞相府に勤める私たちは多忙を極めているため、規定の時間に昼食を摂ることができない。そもそも、食堂が長く開いてくれれば良いのだが」
「いや~それは無理だと思うよ。だってあそこで働いてる人たちにも家族がいて生活があるし、姜維殿がお昼食べ損ねたのは姜維殿のせいなだけだし」
「しかし、仁の世のために戦うのであれば多少の不都合も乗り越えねば」
「姜維殿が言ってる不都合って、姜維殿の胃袋で起こってるだけじゃん。時間通りにご飯食べに行けばいいだけなのに、どうしてしないの?」
「それは・・・」
わがままな人だなあと思う。
ここは戦場ではなくて成都だ。
ご飯が食べたいなら食べられる時間に行けばいいのに、それをしないのは姜維殿が自分の体を甘やかしているからだ。
人にばっかり自分の理想を押しつけて、食べたいときに食べたいなら自炊すればいい。
まさか言い返されるとは思っていなかったのか、姜維殿が黙り込んでしまう。
今日の私は何ひとつ間違ったことは言っていないと断言できる。
よって、姜維殿にお小言を言われるはずもない!
「お話はおしまいでいい? あっ、諸葛亮様のお昼は出仕する時に持って行ってもらってるから大丈夫! いつも空っぽのお弁当箱と目いっぱいの感想返してくれるんだあ」
「殿」
「ん?」
頼みがありますと、いつになく真剣な表情で姜維殿が私を見つめている。
綺麗な顔がものすごく近くにある。
姜維殿ってば急に目が悪くなったのかなと疑ってしまうほどに、姜維殿が接近している。
なぁにと返した声が少し上ずっていたかもしれない。
姜維殿のことは好きでも嫌いでもないけど、顔がいい男の人は好きだから仕方がない。
ちなみに一番かっこいいのは趙雲様だ。
「丞相の分と他に、差し支えなければ私の分も作ってはいただけないだろうか」
「え~」
「先日は大変失礼なことをしたと今更ながらに猛省している! 経費が嵩むのならそれなりの報酬は用意する。握り飯だけでも構わない、頼む・・・!」
「いや、お金はいらないけど。でもお弁当はもう器もないし」
「以前差し入れしてくれた時のものは?」
「燃やして捨てちゃった」
「なぜ! まだ使えそうだったのに」
「だってあれを使う人はもういないから。そうだ、お弁当作ってもらっていいかは関興殿の許可がいるんだった!」
「・・・なぜ?」
まさかの申し出にびっくりした。
でも、姜維殿には悪いけどまだ前向きにはなれない。
それは姜維殿のせいではなくて、私自身の問題だ。
突然押しかけられて謎の許可を要請される関興殿は、私よりももっとびっくりするだろう。
でも、そういう約束だからひとまずは関興殿に頼ってしまいたい。
あの人は私を助けてくれるお兄さんだ。
私は狼狽える姜維殿の顔から顔を逸らすと、広場から逃げ去った。
「ていうか、あの顔で頼んだらどの女の子でも作ってくれると思うわけ!」