聖櫃は二度と渡らない
私には何もない。
諸葛亮様に引き取ってもらうまでの思い出もほとんどないけど、私をものすごく睨みつけてくる男の人がいたことだけは覚えている。
私はたぶん、その人から嫌われていた。
なぜその人が私を嫌っているのか、大きくなった今ならわかる。
私が司馬懿の娘だからだ。
私の母は司馬懿の妻ではなくて、他の人の妻だったらしい。
睨まれる理由は両の指じゃ数え切れないくらいにある。
私は、誰かに望まれて生まれてきた子どもではない。
私がいて笑顔になってくれたり幸せになってくれる人はいないんだ。
幼心にもそう思っていた日があることを、きっと諸葛亮様と月英様は知っている。
おふたりは事あるごとに私がいて幸せ、楽しいと言ってくれるから。
子どもの頃の私は、今とは想像できないくらいに味気ない表情ばっかりしてたんだと思う。
「殿が作る料理は、1人ずつ味が違うんですね」
「えっ、どうして知ってるんですか」
「実は先日、丞相の弁当箱と間違えて一口頂戴しまして。私に向けて作っていただいた方が味が濃くて驚きました」
「諸葛亮様は薄い味がお好きだし、あとちょっとお歳だから。・・・あっ、これは言わないでほしいです!」
「ははっ、私と殿の内緒事ですね。それで殿、これを貴女に」
「箱?」
以前、咳払いと恥ずかしげな笑みと一緒に、その人が食べる量にはぴったり合う大きさの箱をもらったことがある。
空の箱を渡すのは障りがあるのでと前置きされて渡された綺麗な箱の中には、とても綺麗なお菓子が入っていた。
花の形のお菓子に見惚れていると、次からはと贈り主が静かに声を上げる。
「次からはぜひ、それに料理を詰めてもらえないでしょうか。そうすれば丞相のお食事と間違える失態もなくなる上に、その、私も嬉しい」
「あの、えっと、私も今以上にがんばって作るかも・・・?」
「それはまた嬉しいことを言ってくれます」
箱に入っていた花形のお菓子はとても美味しかったし、新しい箱に入れたお弁当も相手はとても喜んでくれた。
関興殿も、殿が楽しそうで良かったと喜んでくれた。
私は何も与えられず、人から喜びや楽しさを奪うことしかできないと思っていたけど、そうではないのかもと自信もついた。
そうして少し時間が経って、使う相手が死んで使う機会がなくなった箱はよく燃えた。
焚き火に勤しむ私を、まるで自分が火炙りにかけられているような苦悶に満ちた顔で見つめている諸葛亮様がいた。
その時の諸葛亮様が何を思い苦しげな表情を浮かべていたのかは、今になってもわからない。
私と買い物に行かないか?
姜維殿の時と場所と雰囲気をまるきり無視した唐突な誘いに、丞相府に詰める役人たちの半数がお茶を吹き出し、半数は墨を倒す。
あーあ、墨で服を汚して奥方たちに叱られちゃうぞ~。
幸いにしてお茶も墨も手元になかった私は、姜維殿の真剣な表情を無言でじいと見返した。
まるで戦場に赴くような険しさだ。
いくら姜維殿の顔が良くても、もう少し柔和な表情にならないと商店の人たちは震え上がってしまう。
姜維殿が欲しいものは戦場のど真ん中にあるんだろうか。
だったら私じゃなくて張苞殿や関興殿を誘ってほしい。
「何買うの?」
「殿が作った弁当を詰める箱だ」
「でも関興殿は許可しなかったって趙統殿言ってたよ」
「私が欲しいのは関興殿の許可ではなく殿本人の気持ちだ。だから殿を懐柔することにした」
「私は別にお金にも物にも困ってないんだけど」
「買うのは私の弁当箱だが?」
姜維殿は何をもって私を懐柔するつもりなのやら。
懐柔なんて大層なことを言うもんだから何か策があるのかなと思いきや、自分のことしか考えていない。
もしかして私ってそんなに安易な女だって思われてる?
私は私のこと、結構思慮深いと思ってるんだけど。
「それで、私の誘いを受けてくれるのだろうか」
「うーん・・・?」
「良かった。では明日迎えに行きます」
「お迎えって諸葛亮様の邸に? 尋問から始まって尋問で終わっちゃうと思うよ」
「・・・確かに。ではどこか場所を変えて、ああ、私の邸まで来て下さい」
「ねえ、ほんとに買い物だよね? 下心とかない? 趙雲様同伴でもいい?」
「それだけは勘弁してくれないか・・・」
大丈夫なんだろうか。
姜維殿が女心をまったく理解していなくて、私の心をまったく攻められていないのが単純に心配だ。
私以外の女の子がこれから不愉快な思いをしたり戸惑ったりしないように、今のうちに私がそれとなく姜維殿の行動の修正をしてあげるべきかもしれない。
私の親切心からの応諾など知る由もないであろう姜維殿が、にっこりと微笑んだ。
丞相への報告は封殺されました