美味に歓声 心に陥穽
あらちゃん、今日は随分な色男と一緒なのね。
そう呼ばれるたびにが立ち止まり、後輩の姜維殿だよと揶揄を軽やかに訂正する。
何度目の一時停止だろうか。
姜維は立ち止まっては馴染みの女性と挨拶を交わしているの背後に立つと、紹介されるがままに会釈した。
蜀においてはまだまだ新参者だから、知人の紹介で少しずつ顔と名前を知ってもらうというのも悪くない。
は、市井ではかなり広範囲に人脈を張り巡らせているらしい。
老いも若きも皆、を見かけると気さくに声をかけてくる。
連れがいてもお構いなし寄ってくる男たちもいる。
なるほど、関興たちが警戒を怠らないわけだ。
姜維は馴れ馴れしくの手に触れようとする青年との間に割って入ると、の名を呼んだ。
「あ、ごめん姜維殿。暇だったよね、行こっか」
「暇ではないが・・・。殿には知り合いが多いのだな」
「諸葛亮様も月英様もお忙しいし趙雲様たちも巡察でいない時が多かったから、成都の街中を散歩することが多かったんだ。姜維殿の案内もできて良かった」
「気配り感謝する。だが、もう少し警戒した方が良いと思う」
「えっ、やばそうな人いた?」
の朗らかな表情がにわかに曇り、姜維は慌てて首を横に振った。
を怖がらせるつもりは微塵もない。
の傍にいる誰かが、自身が気付けていない不埒な視線を遮れば良いだけだ。
あらかたの挨拶も終わったのか、ようやく止まることなく歩き始めたに並んで歩く。
予め目星をつけていた店の前に立つと、はへぇと声を上げた。
「ここなんだ、初めて来た!」
「丞相にお渡ししているものはここで用立てたものではないのか?」
「あれは月英様が虎戦車作るのに余った材料で拵えてくれた特別なものなんだよ。諸葛亮様の食べる量とか持ちやすい重さとかは月英様が一番知ってるから」
「さすがは月英殿」
様々な大きさの箱をひとつひとつ手に取り、自分の胃袋と相談する。
の手料理は美味かったので、出された分はすべて食べ切れる自信がある。
以前は2人前の昼食を用意してくれたが、あれも余裕で平らげた。
姜維は両手に箱を持つと、少し離れたところで別の商品を見下ろしていたに話しかけた。
「殿はどれくらいの量なら負担にならず作ってくれるだろうか」
「それとそれ、どっちかってこと? 大きくない? そんなにたくさん食べれる?」
「丞相府で政務を行い、鍛錬もしていたらこれでも足りないかと思ったのだが・・・」
「あー、鍛錬があるからかあ。姜維殿が選びたい方でいいよ」
作るかどうかも決めてないしねと、が悪戯っぽく笑う。
そういえばそうだった、買い物はを懐柔するための策のひとつに過ぎなかった。
特に不平不満も言わずに同行してくれたので勘違いしていたが、昼食の行く末はまだが握っていた。
姜維は手早く会計を済ませると、相変わらず商品を眺めたままのを呼びかけた。
うわぁ美味しそうと、が目の前に並べられた形の良い料理を前に歓声を上げる。
良かった、間違っていなかった。
の好みをそれとなく周囲から聞き出し、巡察を兼ね成都の店事情を探った甲斐があった。
すべてはに喜んでもらうため。
満面の笑みで料理を頬張るを眺めているだけで、こちらも笑みが溢れてくる。
姜維殿はどれが好きと尋ねられ、姜維は箸を動かす手を止め小考した。
「味付けで言えばこの餡がもっとも馴染む」
「ふんふん。こっちのお野菜蒸したのとかどう?」
「そうだな・・・」
「姜維殿、野菜苦手? ちゃんと食べないと肌艶に良くないって鮑三娘殿が言ってたよ」
「私は武人なので肌艶はそれほど気にしていない」
「でも趙雲様のお肌はつやつやだよ。触ってもすべすべでね」
「どんな状況で趙雲殿の肌に触れるのか教えてほしいのだが」
「昔は抱き上げてくれる時で、最近はお食事の時かな~」
人はいつしか必ず老いる。
趙雲の勇名は中央から遠く離れた天水にも轟き、蜀に降った際には、武人の端くれとして真っ先に彼の槍の絶技を見に行った。
今になって思い返せば、あの頃から趙雲の近くには笑顔が印象的な女の子がいた。
きっとだったのだろう。
は事あるごとに趙雲と自分を比較する。
趙雲のような偉丈夫と比べられるのは決まりが悪いと思っていたが、彼女なりの愛情表現だったのかもしれない。
「愛情・・・?」
「は?」
「殿は私に愛情を持って接しているのか?」
「愛情はないけど、先輩心はあるよ。え~、もしかして姜維殿私に好きになってほしいの~? あっ、お弁当欲しいってそういうこと?」
「何を言い出すかと思えば・・・。そういう殿こそ、以前使っていた弁当箱の相手にそういった感情があったのでは?」
「そうだね、大好きだったよ」
本当にすごく優しくて、おおらかで、頭が良くて、もうあんな人二度と現れないって思ってる。
茶化されててっきり激昂するかと思いきや、あっさりと認めるに拍子抜けする。
いつの間にやら食事を終えていたが、静かに立ち上がる。
お代金ここ置いとくね。
きっちり一人分の食事代を卓に置き店を出ていくがどんな表情をしていたのか、姜維は見ることができなかった。
自分と比べられるいろいろなものに対して、少しずつ苛々しただけなんだ